ナーロッパ
いわゆる、なろう系と言われる最近のライトノベルや漫画、アニメの疑似ヨーロッパ風の異世界ファンタジーの世界観をこんな風に皮肉を込めてこう呼ぶことがある。
今回はそんな作品群が何故そんな世界観が多いのか探っていく。
主ななろう系の作者は大体2010年代から活躍しているが、具体的な年齢はほぼ情報がなかったため解らなかった。
それでも現在解っただけの著名的な人の生年月日からその人の背景を紐解いていこうと思う。(2024年現在)
川原礫:アクセルワールド、ソードアートオンライン 49歳
伏瀬:転生したらスライムだった件 48歳
この人達の年齢層から、恐らく1番遊んでいたであろう10~30歳ぐらいの娯楽から何を遊んでいたかで判断しようと思う。
ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーのJRPGの影響
これらのJRPGは大体1980年代からシリーズが始まっており、90年代や2000年代ならこの作者たちが幼少期にあたるため、これらの作品の影響を少なからず受けているだろう。
特に、80年代後半には「ロードス島戦記」、「スレイヤーズ」等の異世界ファンタジーのライトノベルが出始めた頃であり、国産ファンタジー黎明期といっても過言ではなく、これらの作品の作品の世界観に共通してるのは中世ヨーロッパの時代や国の文化のいいとこどりしてごっちゃにした感じである。
何でそうなったかというと、日本人からしたら中世の西洋の世界観には親しみがあるが、あまり深い知識を持ってる人がいないからである。
よほど興味あって知識ある人は創作せず、研究家になっている。
ファイナルファンタジーやドラゴンクエストといったRPGはそういった世界観の影響をもろに受けており、おそらくはなろう系の作品群はこれらのゲーム作品の影響を受けているだろう。
作者がオンラインゲームプレイヤーが多い
2000年代後半に入ると、海外産ならば「ウルティマオンライン」、「ラグナロクオンライン」。
国産なら「ファイナルファンタジー11」等のオンラインゲームが出始めた。
特に、前述の川原礫氏に関しては著名的な著書が二つともオンラインゲームを題材にしたものであり、影響を受けていることは間違いないだろう。
これらの作品群はやっぱり剣と魔法の世界観である。
SFとかの独特な世界観のオンラインゲームが出始めたのは最近である。
こうしてみると、剣と魔法の世界観はゲームを作りやすいのかもしれない。
ただ、実際に剣と魔法の世界観で自己投影して遊ぶのは実際にその世界で生活して活躍するのと同じような感覚になるかもしれない。
余談だがこれらの作品は現在でも遊ぶことができる。
恐らくは、なろう系はこういった世界で遊ぶうちに、実際に住んでみたいと思うようになったから生み出された産物なのかもしれない。
何でオンラインゲームについて書いたかというと、なろう系の作品で転生する際、スキルを選択して冒険するみたいな描写が多かったからである。(この素晴らしい世界に祝福を!、オーバーロード等)
なんとなく、この一人称視点で冒険するというのが、オンラインゲームに似てると思ったのは私だけだろうか?
何で日本風の異世界ファンタジーはないの?
まず、ドラゴンとかゴブリン、エルフみたいなキャラクターがいない。
日本の昔話には鬼を討伐するとかの話があるがその討伐対象の怪物のバリエーションが少なく、ドラゴンとかの化け物を討伐するみたいな話があまり存在しない。
そのため物語を作る下地が存在しないというのもあるかもしれない。
妖怪の類は存在がホラーなので扱いにくいというのがある。
ましてや精霊や神といった存在と戦うわけにもいかない。
他にも世界観が身近過ぎて想像の余地がないというのもある。
逆に言えば、欧米圏だとそこら辺の制約がない。
なのでアメコミとかハリウッド映画のめちゃくちゃな世界観の日本描写はそういったことが由来だったりする。
そのため国産ファンタジーも欧米圏から見たら結構無茶苦茶なのである。
ベルセルクとかのちゃんと評価を受けているものも存在するが。
あと、魔法という使い勝手がいい能力が存在しないので、物語を作りにくいというのもある。
一応陰陽道というのもあったりするのだが、難しすぎて扱いにくい。
忍術ならあるが使うと大体忍者の物語になってしまうので、やっぱり物語の幅が広がらない。
実は転生は仏教徒しかできないかもしれない
転生とは、元々肉体が生物学的な死を迎えた後には、別の肉体(人間以外の生き物も含まれる)を得て新しい生活を送るという、宗教的な概念であり、仏教を含むインド発祥の宗教に多く見られる。
また、正統派ユダヤ教、北米ネイティブアメリカンにもこの考え方があり、ピタゴラスやソクラテス、プラトンといったギリシャ哲学者もこのような考えを持っていたと言われている。
だが、肝心のヨーロッパの宗教であるキリスト教は「復活」の概念があるが、「転生」に近い概念がない。
キリスト教の「復活」とは、読んで字の如く死んだ肉体でそのまま生き返るというものである。
そこで、キリスト教における聖典、新約聖書におけるイエス・キリストの復活の画面を抜粋する。
・マタイの福音書(最初の章) 27章 この時キリストは死刑で死んだ
・マルコの福音書(二番目の章) 16章 この時キリストは十字架に張り付けになって死んだ
・ルカの福音書(三番目の章) 24章 この時キリストはやっぱり十字架に張り付けになって死刑になった
・ヨハネの福音書(四番目の章) 20章 この時キリストはまた処刑されたしかもその後脇腹を槍で突き刺されて本当に死んだか確認された
実はこの槍がエヴァンゲリオンに登場する聖槍、「ロンギヌスの槍」であり、この槍を刺した人の名前は「ロンギヌス」である(諸説ある)
この復活には人によっては解釈が異なる場合があり、人によっては活力が戻ること、絶望的な状況から戻ること等、いろいろ解釈が異なるらしい。
そのため、キリスト教徒の人に「復活」の概念について決めつけて議論するのは避けた方が良い。
ヨーロッパに近い世界観なのにその宗教観の人がたどり着けないのは奇妙な話である。
ただ、現実に前世の記憶を保持した人物のケースもあったりするので、一概に言えない。
これは私が知ってる話なのだが、第二次世界大戦時の米軍の戦闘機のパイロットが日本軍との戦いの中で戦死し、戦後記憶を保持したまま生まれ、その子供の両親が前世の人物を探したという話があった。
他にもそういった類の都市伝説的な話は世界各国に存在していたりするので、探してみるといいだろう。
もっとも、最近は「転生」について検索したら最近は「転生」物の小説ばかり出てくるのだが。
そもそも何で転生で異世界に行く物語が多いのか
これは割と深刻な問題が絡んでいるかもしれない。
このブログの読者は「氷河期世代」という言葉をご存知だろうか?
その「氷河期世代」は、大体1993年から2005年に就職活動をしていた世代の事を指すことが多い。
大体この時代で20歳と仮定すると、現在40~50歳。
丁度最初の方で紹介したライトノベルの著者二人の年齢に合致する。
この世代は就職活動がうまくいかないことが多く、現在も非正規雇用で苦しんでいる人も多い。
そのため、この世代は割と自身が傷つく事を避ける傾向がある。
これは所謂、なろう系の作風に影響受けていると思われる。
何故かというと、なろう系はあんまり主人公が理不尽であったり、嫌な目にあうことが少ない傾向がある。
実際、なろう系の読者も前述の二人と年齢層はほぼ同じなのではないかという噂が存在し、それならば前述の傾向の物語を好むというのもなんとなくわかる気がする。
もう「氷河期世代」は傷を受けたくないのだ。
そして沢山嫌な思いを経験し、自分の人生に絶望、悲観してこの世界に見切りをつけてどこか遠い世界に行きたいというのもあるかもしれない。
そこから「転生」という考えに至るのも十分に考えられる。
こうしてみると、この「異世界」というのは、日本人の願望と考え方、あこがれから具現化した死後の世界なのかもしれない。
もし死ぬ直前、考える余裕があれば、このことを考えれば多少の恐怖は無くなるだろう。
もっとも自殺はダメだが
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